鎌田二丁目南公園
世田谷区鎌田2-19-1
鎌田村は隣接する大蔵村の村域内に18箇所飛地状に立地する小村であった。砧村成立時に大字鎌田になり、東京市編入で世田谷区鎌田町となるも、いずれもそのまま飛地状態で存立していた。大蔵町の区域は内部に鎌田町が点在していたほか、岡本町、祖師谷一丁目、喜多見町、宇奈根町の飛地が混在し、これに1912年に神奈川県から編入した久地町、諏訪町(いずれも多摩川の河川敷)が含まれていた。市郡合併で旧大字をそのまま町に置き換えたために生じた飛地存続による弊害を1955年に解消することとなり、大蔵町を三分割して北部に砧町、南部に(新)鎌田町を設置して、(旧)鎌田町および当該各町の飛地を新設三町に振り分けた。その後1971年に実施した住居表示で再度区割りに変更が生じて現在の町域が確定した。(鎌田 (世田谷区) - Wikipedia)
終点の砧本村は、開設時は東京府北多摩郡砧村にあり、停留所が設けられた付近が砧村の字本村であったことから、砧本村の名が付けられたものである。駅前には切符委託販売も兼ねた売店があり、行商が商う姿もみられた。戦前、砧本村停留所前にわかもと製薬の工場があり、砧線はその通勤の足としても用いられた。わかもと製薬跡地は現在、駒澤大学玉川校舎となっている。(東急玉川線 - Wikipedia)