荒木町という名を聞くたび、胸の奥で静かに灯がともる。かつて花街として栄えた路地は、今もなお細く曲がりくねり、夜の気配をふくんだまま、訪れる者をそっと迷わせる。坂の多い地形は、まるで時間そのものが波打っているかのようで、上るたびに日常が少しずつ遠ざかり、下るたびに知らぬ物語へ足を踏み入れてしまったような心地がする。
石畳の影を伝うように灯るスナックの看板、木造家屋の軒先に漂う古い酒の匂い、路地の隙間からふわりとのぞく植木鉢の緑。それらが互いに響き合い、荒木町全体をひとつの静かな物語にしている。歩くほどに足取りはゆるみ、街の息遣いが肩越しに寄り添ってくる。
ふと見上げれば、都会の真ん中とは思えぬほど夜空が深い。ここでは喧騒も光も適度に薄まり、心の奥に眠っていた遊び心がそっと顔を出す。寄り道を重ねるほど、この小さな町は不思議な魅力を増し、最後にはもう一度来なければならないような気持ちにさせてしまう。荒木町とは、そんな不思議な磁場を宿した街である。
荒木町・町名の遍歴・由来
町域中央部の荒木マンション裏にある池を最底部とした摺鉢状の地形である。かつての花街の面影を残しているが、高層建造物なども見られる。
明治5年(1872年)11月2日に「四谷荒木町」が起立。町名は東端を走る荒木坂(新木坂、津の守坂の別称)と荒木横町にちなむ。維新後に高須藩主松平家の屋敷が退き、池や庭園が一般にも知られるようになる。一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地となり、料理屋が軒を連ね芸者らが行き交う花街が形成された。明治44年(1911年)、「四谷荒木町」から「荒木町」に改称された。
花街荒木町の最盛期は関東大震災後。他の花街が被災した影響で客が荒木町に流れ、料理屋13軒、待合63軒、置屋86軒、芸妓252名を抱えた[5]。だが戦時中は花街の営業が縮小され、昭和20年(1945年)の東京大空襲で壊滅的被害を被る。戦後に復興するも昭和40年代(1966年-1975年)に衰退、昭和50年代末(1980年代前半)に花街としての荒木町は終焉した。
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荒木町 (新宿区) - Wikipedia)