新宿区歌舞伎町――その名を聞くだけで、胸の奥がざわりと波立つ。昼と夜の境目が曖昧なこの街は、まるで巨大な迷宮が呼吸しているかのようである。ネオンの灯りは太陽の代わりに輝き、街路を歩く者の影を長く伸ばし、きらびやかな幻のような世界へ誘う。
雑居ビルが重なり合って立ち並ぶ狭間には、数えきれない物語の気配が潜んでいる。路地に漂う香り、どこかで響く音楽、見知らぬ誰かの足音――そのすべてがこの街の脈動を形づくり、訪れる者の心をたちまち昂らせる。
朝の気配が差し込むころには、街は不意に素顔を見せる。昨夜の残滓が薄れていくなか、静まり返った歌舞伎町を歩けば、喧騒の裏にあるしなやかな気高さがふと姿を現す。
華やかさと混沌が渦巻く街でありながら、どこか愛おしい体温を宿す場所。歌舞伎町は、迷い込むことそのものが愉しみとなる、不思議な吸引力を放つ街である。
歌舞伎町・町名の遍歴・由来
大部分は新宿区発足前には旧淀橋区に属した地域(三光町は旧四谷区)である。元々は「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と元大村藩主大村氏邸があったところで、明治以降は鴨場となっていた。当初は角筈村、1889年からは淀橋町に属した。当時の地名は一丁目が角筈字十人町、同字矢場。二丁目が西大久保字南裏、東大久保字角筈裏、同字新田裏。
1893年、淀橋浄水場建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられ、造成される。1920年には東京府立第五高等女学校(現在の東京都立富士高等学校・附属中学校)がこの地に開校。学校を取り巻く周囲は閑静な山の手の住宅街として大臣や軍人の邸宅もあり発展していった。1932年、東京市淀橋区に編入され、市街化が進んだ。
1945年の東京大空襲で一面焼け野原となったが、第二次大戦後、石川栄耀や鈴木喜兵衛らによって「(現在の歌舞伎町一番街付近に)歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられ、この都市計画から、計画担当者の石川栄耀の提案により、新しい町は歌舞伎町と名付けられた。結局、財政の面などからこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまった。
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歌舞伎町 - Wikipedia)