新宿区公園探訪

戸山

戸山という名前には、都会の真ん中にふっと開いた丘陵の気配が漂っている。広大な戸山公園を中心に、緩やかな起伏が続き、歩く者の足元から静かな風が立ちのぼる。高層建築が林立する新宿にありながら、この町には不思議な余白があり、空の広さが思いのほか大きく見える。ビルの谷間をすり抜けてきた光が、草の上に柔らかく落ちるたび、日常の重さが少しずつ解けていく。

公園の小道を進むと、木々のざわめきが淡い音楽のように響き、近くにある大学の気配と混ざり合って、町全体に落ち着いた知性の香りを漂わせる。古い歴史を思わせる一角や、戦後の名残がひっそり佇む場所があり、ふとした瞬間に時間の層を踏みしめているような感覚に包まれる。

夕暮れどき、丘の縁に座れば、空は金から群青へと移り変わり、遠くに新宿の光が瞬き始める。その光を眺めていると、今いる場所が都会と静寂の境目にあることに気づき、心のどこかがゆっくりと整っていく。戸山とは、歩けば歩くほど町の奥行きが深まり、また戻ってきたくなる奇妙な引力を秘めた場所である。

戸山の場所

戸山・町名の遍歴・由来

町域内は一般住宅や大規模団地の「戸山ハイツ」のほか、徳川家の回遊庭園が置かれた際に造られ現在でも残っている箱根山を中心とした都立戸山公園といった緑地や、東京都立戸山高等学校、学習院女子大学、早稲田大学戸山キャンパスといった文教施設、国立国際医療研究センター病院といった医療施設も見られる。
寛文11年(1671年)に徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家光友に嫁いだ際に、住民を他へ移して下屋敷が作られ戸山荘と呼ばれた。その庭園は小石川後楽園に並ぶ江戸の大名庭園でも指折りの庭園であった。しかし風水害で荒廃し、幕末に焼失後はそのまま復興されなかった。享保16年(1731年)に牛込破損町が成立する。
明治時代になり、現在の大久保や百人町も含むこの付近は軍用地として利用された。近辺は戸山ヶ原と呼ばれ、陸軍の射撃場や陸軍の軍人養成機関である陸軍戸山学校など軍事関係の施設が設置された。これらの施設は第二次世界大戦終結まで存在した。
戦後すぐに住宅難で家が不足する事態に陥り、これを打破すべく東京都によって都営住宅が建設され、都内の団地の原点ともいえる戸山ハイツが1949年に完成した。1972年に鉄筋コンクリートの高層住宅に立て替えられたが、現在でも町域内の中心的な存在となっている。 (戸山 (新宿区) - Wikipedia)

戸山の公園

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