新宿区四谷という名を聞くと、都心のただ中でありながら、不思議と古層の気配が立ちのぼる。坂と谷が折り重なり、街道の面影がそこここに残るこの町は、まるで時間が幾重にも堆積した書物のようである。ページをめくるように歩けば、賑やかな通りの影から、寺社の静寂がふいに立ち現れ、ビル風の向こうに、往時の余韻が微かに漂う。
四谷の魅力は、その境界のあいまいさにある。都会と下町、喧騒と静謐、真昼の明るさと夕暮れの翳りが、継ぎ目なくひとつの風景として溶け合っている。石畳の残る細道や、古い商店の木の匂いに触れるたび、遠い記憶の扉がそっと開くようで、思わず歩幅がゆるむ。
そして気ままに歩いていると、不意に視界がひらけ、新宿の空に浮かぶ高層ビル群が姿を見せる。その瞬間、古きと新しきがひとつの幕間劇のように交差し、この町を歩く者だけが味わえる特権的な感覚が胸に宿る。四谷は、歴史の余白と現在の息づかいが重奏する、都市のなかのささやかな奇跡である。
四谷・町名の遍歴・由来
江戸時代以前には後の内藤新宿町のあたりまでを含めて潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれ、すすき原であった。また左右とも谷で藪が深く一筋の道があるだけだったとも。
「よつや」という言葉が文献上に初めて登場するのは1590年(天正18年)に内藤清成が記述した『天正日記』である。清成がこの付近を調査する際に派遣した家臣の道案内をした角筈村の関野五郎兵衛が、別名「よつや五郎兵衛」と呼ばれていた。この「よつや」が何を意味するかは不明である。また慶長7年頃の江戸を描いたとされる『別本慶長江戸図』には半蔵門に相当する場所に「土橋 国府方より角筈へ出 甲州道四ツ谷通り」、同じく九段坂に相当する場所に「登坂四ツヤ道」との記述がある。その後徳川家康が甲州街道と青梅街道を設置した際、その途中に設けられたのが四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)で、これが地名として初めてつけられた「四谷」である。
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四谷 - Wikipedia)