公園の奥で、木漏れ日に照らされたシーソーは、まるで時間の裂け目に置き忘れられた古風な装置のように佇んでいる。片方が上がれば、もう片方がふわりと沈み、単純なはずのこの往復運動が、妙に胸をざわつかせる。あの一瞬の浮遊感は、地上からわずかに解き放たれる儀式のようでもあり、足元の砂がかすかに鳴るたび、心の奥に眠る冒険心がそっと目を覚ます。
ひとりで乗れば、片側の静けさがじんわりと広がり、世界が傾いたまま止まってしまったような感覚に包まれる。ふたりで乗れば、互いの重みの交差によって、見慣れた公園がゆっくりと遠ざかったり近づいたり、まるで景色そのものが呼吸を始めたように変化してゆく。重力の戯れがもたらすこの揺れは、どこか懐かしく、しかし未知の方向へ誘う力を秘めている。
シーソーは今日も、誰かがそっと腰を下ろすのを待ちながら、静かに大地に根を張っている。その揺らぎに身を委ねれば、忘れていた均衡の不思議が、再び世界をひらいてくれる。
シーソー
主に公園に設置されており、子供の遊びとして親しまれている。ヨーロッパでは、17世紀ごろ土を積んだ上に木を置いて行われた。18世紀には4人乗りの十字型のものができたとされる。日本では少なくとも昭和初期には、児童遊園における体育施設の設置すべき遊具としてあげられている。通称として「ぎったんばっこん」あるいは「ぎっこんばったん」「ばったんこ」などと呼ばれる。(シーソー – Wikipedia)
シーソーはいくら?